「誰でもいいから話を聞いてほしい」に潜む本当の意味




最近仕事が忙しすぎて気が滅入ってしまう日々…


でもね、世の中には私なんかよりはるかに忙しいひとが山ほどいることもよくわかっているのよ。
わかってるんだけどね、私の人生の中では、一番ってくらいに忙しくて、やっぱり疲れたなって本当に思ってしまうというね。


人間ってね、大丈夫?って手を差し伸べてくれる人に頼ってしまう傾向があるんだと思うんだけどね、私はね、大丈夫?って聞かれると、大丈夫!って強がって言っちゃうんだけど、

この人には聞いてほしいなって思って話をしたときに、やっぱり「それは大変だったね」って共感してほしい生き物なんだなって実感したんだよね。




やっぱりさ、誰でもいいから聞いてほしいってときはあると思うんだけど、でも本当は、これは誰でもいい訳ではなくて、今の自分の中ではとっても大変な状況だから、それを聞いてくれてなおかつ、「そうかそうか、それは大変だった、よく頑張ったね」と言ってくれる人、っていう意味合いが込められている。



でも逆を言えば、気の許せる友達や先輩じゃなくて、極端な話、赤の他人でも「そうかそうか」って共感してくれる人ならいいんだろうと。


だからね、誰でもいいから話を聞いてほしいときって言うのは、

「(そうかそうかって頷きながら話を聞いてくれる人々の中で)誰でもいいから話を聞いてよ」ってなるんだよね、きっと。



いや、でもこれは悩んでてアドバイスを求めてるときとは別だからね。ただ単に疲れてて、誰かに愚痴でもなんでも話を聞いてほしいときの話。

だからこそ、共感してくれることが大事になるんだよね




例えば、疲れたとき、こんな理不尽な状況なのに、耐えて頑張ったんだよ!って、真面目すぎる人に相談したとする。



「そんな理不尽な状況だったら、ちゃんと先輩に言ったほうがいいよ。今後のためだし、あなたのためを思って言ってるんだよ」なんて説教っぽく言われてしまったら…


それはそれは、私のためを思って言ってくれてることは、重々承知だけど、、、








「「ちがう、ちがうんだよ」」









私の求めていた返事じゃないって思ってしまうと思うんだ。





疲れてるとき、一番の栄養は共感してくれるってことなんだろうなっていうのは、私の持論であります。


誰か私の周りの人がこういう状況になったら、優しく包み込んであげられるようにふわふわのベッドのような心を用意しておきたいものですね。




そうやって考えてみると浮かぶ人はただひとり…







やっぱり、見習うべきは、母だなぁ。